忘れられないグラナダ1997年11月23日(日)日本のホテルでは、たいていチェックアウトが、朝の十時だと思うが、スペインで昼の十二時、あるいは二時という所もある。チェックアウト後も荷物を預かってもらえる。 グラナダ行きのバスが午後一時だったので、十二時にチェックアウトすればちょうどいいと思った。 まずは宿から近いユダヤ人街へ行った。『花の小道』も見つけたが、この時期のせいか花はほとんど咲いていなかった。これでは『草の小道』である。花の咲いている春に、もう一度来たい。 コルドバでは例年、五月七日から十七日にかけて、『パティオ祭り』が開催され、コルドバは花、花、花でうめつくされるのだそうだ。できればその時期に来て、パティオ祭りを見学したいと思う。その時には何日か泊まりたい。 花の小道ならぬ、草の小道も見た事だし、アルカサルに向かう事にした。 グアダルキビール川のほとりに建つこの城は、アルフォンソ十世によって一三二八年に改修された。キリスト教時代の王の宮殿であり、異端尋問の宗教裁判所としても利用されたと言う。 (地球の歩き方より) そういう血なまぐさいような物も私は結構好きなのだが、ここはそんな感じは少しもなく、落ち着いた雰囲気のとてもきれいな所だった。 カメラを構えていると、向こうから猫が三匹、こっちに向かって歩いてきた。エサをくれるとでも思ったのだろうか? スペインの猫はたいてい用心深く、そばによると逃げてしまう猫が多かったが、ここの猫は人なつっこい。 庭に出ると、とても広く、本当にきれいだった。昨日急いで見てしまわなくて正解だった。ここは明るい時間にゆっくり見た方が絶対にいいと思われるからだ。 広い庭をゆっくり歩き、ベンチに座ったりと、のんびり過ごした。ここにもオレンジの木が一面に生えていた。 宿に戻り、二階の自分の部屋から一階のフロントまで荷物を降ろすと、例のお兄さんが 「部屋から電話をくれれば、荷物を運んだのに。」 と言ってくれた。 宿代は、税金が加算され、三千七百五十ペセタだった。 「荷物を預かろうか?」 と聞かれたので、 「バスが一時に出るので、このまま出ます。」 と言うと、 「これからグラナダに行くの?」 と言うので、 「どうしてわかったの?」 と言うと、バスの時間から、だいたいそうだろうと思ったのだそうだ。彼は、 「グラナダに、僕の知り合いの宿があるよ。」 と言い、そこの宿のカードをくれた。宿泊代は、こことだいたい同じぐらいだという。 私は「グラシアス (ありがとう) 」と言って、受け取りながら、「でも、今度はもっと安い所に泊まっちゃおう。」と考えていた。 バスステーションに行くまで、タクシーの運転手はずっとしゃべっていた。 「コルドバにはどのくらいいたんだ?」 と聞かれたので、「一泊。」と言うと、 「たったの一泊かい?」 と、ちょっと不満そうである。次はどこに行くのか聞かれたので、「グラナダ」と言い、 「グラナダには何泊するんだ?」 と聞かれたので、正直に「五泊」と言うと、 「コルドバには一泊でグラナダには五泊かい?」 と、笑いながら言っているが、かなり不満そうである。私はうそをつけば良かったかなぁと思ったが、陽気な人なので、まあいいか、と思った。 「でもコルドバは、素晴らしかった。きっとまた来ます。」 と、彼に言った。もちろん本心である。 バスステーションのベンチに座り、暇だったのでガイドブックをパラパラ見ていると、フラメンコのようなステップの音が聞こえてきた。見ると、日本人らしき女のコがステップを踏んでいた。彼女を見ると、ニコッと微笑んだ。とても感じの良い笑顔だ。 「日本人ですか?」 と彼女が話しかけてきた。イントネーションがちょっと違うので、彼女は日本人ではないと思われる。私は「そうだ」と言うと、嬉しそうに、もう一人、ベンチに座っていた女のコを呼んだ。彼女は日本人だった。ステップを踏んでいた女のコは台湾人だそうだ。二人はセビリヤの語学学校に通いながら、フラメンコを習っているそうだ。学校のツアーで、全日コルドバに来たのだが、なんと、バスにおいてかれてしまい、ここで一泊したそうなのだ。私の通っていたマラガの学校も、結構いいかげんではあったが、バスの出発の時にはちゃんと人数を数えていた。日本人の彼女は、 「こんなの、信じられない。」 と怒っているのに、台湾人の彼女は、 「ここで一泊できて良かったね♥」 などと喜んでいたそうだ。台湾人の彼女は、かわいくて、頭も良さそうだ。日本語も結構話せる。日本語は、日本人の彼女が教えていた。楽しそうにやっている。セビリヤ行きのバスも同じ時刻の出発だったので、二人のおかげで、退屈な時間を楽しく過ごす事ができた。こういうちょっとした出会いも、旅の楽しみである。 コルドバからグラナダまでは、約三時間と、ガイドブックには書いてあるが、二時間半ぐらいで着いてしまった。 グラナダのバスステーションは、今までの所と違い、ものすごく広くてまるで空港のようだ。私は、このまま安宿のたくさんあるというゴメレス坂へ行ってしまおうと思い、タクシーに乗った。今までタクシーの運転手は皆感じが良かったが、この人だけはちょっと感じ悪かった。ゴメレス坂に着くと大急ぎで帰って行ったのだが、この坂がせまいので、車を停めにくく、それで機嫌が悪かったのかもしれない。ゴレメス坂の下にある、ヌエバ広場で降ろしてもらえば良かったのだろうが、そんな事は知らないのだから、しかたがない。ガイドブックに出ていた『オスタル・ゴメレス』という所に泊まろうかと思ったのだが、閉まっていて入れなかった。大きいスーツケースを持っているので、あまりうろうろもできず、とにかく適当な所に入ってしまった。そこは『オスタル・ビエナ』という宿で、案内された部屋は三階だったので、荷物を運ぶのに苦労した。 わりと広い部屋で、おまけにまたダブルベッドだった。料金も千五百ペセタと安いのですぐにOKしてしまったのだが、よく見ると、床の絨毯にゴミがこびりついていて、あまり清潔ではない。シャワー・トイレ別なのは承知だが、水道もないのは不便だ。バスタオルが置いてあるが、どうもきたなそうで、使えない。 それでも、また荷物を移動したり、宿を探したりするのはイヤだったので、どうせ寝るだけだと思い、我慢することにした。 部屋でひといきついてから、ゴメレス坂を登ったところにあるアルハンブラ宮殿へ向かった。 ガイドブックに日曜日はタダだと書いてあったので、時間はあまりないが、少しでも見られればいいと思ったのだ。ところが皆チケットを見せて中に入っているではないか。チケットのない私は、中に入れないようだ。 「なんだ。タダじゃないじゃないか。やっぱり地球の○○方は当てにならない。」 と思ったのだが、あとで聞いた話によると、入場時間の制限がある為、タダの日でもチケットをもらわなくてはならないそうだ。チケット売り場まで行くには、ここから十五分ぐらい歩かなければならず、どっちにしても時間がなかった。 それでも、この日はとても天気が良かったので、広場から素晴らしい景色を眺めることができ、来て良かったと思った。 ゴメレス坂を下りていると、途中で寄木細工などを売っている店があり、日本語で説明が書かれた看板があったので、そこで立ち止まった。 店主のエミリオ・バルディビエソ・マシアスさんは、今では数少ない寄木細工職人で、東京、新宿の伊勢丹で、実演販売をした事もあり、かなり日本とは交流があるらしい。 ここでフラメンコのチケットがとれると書いてあったので、聞いてみる事にした。 私はジプシーの住んでいるという、サクロモンテの洞窟内にある『クエバス・ロス・タラントス』というタブラオに行ってみたいと思っていた。ところがエミリオさんは、『ハルディネス・ネプトゥーノ』の方が絶対いい ! と強く薦めるので、そこに行く事にした。 早めに出て、ウインドウ・ショッピングを楽しみながら歩いた。タブラオの近くに大きなデパートがあり、夜遅いのにまだ開いていたので、そこに入った。デパート内にあるバーガーキングでホッパーとかいうハンバーガーを買って食べたが、これはおいしかった。 十一時ぎりぎりにタブラオに入ると、一番見えにくい端の席に通されたので、「もっと早く来れば良かった。」と後悔した。いちばんいい席には、日本人団体のオジサン達が座っていた。隣を見ると、日本人カップルがいたので思わず、 「あっ ! 日本人だ。」 と言ってしまった。新婚さんだそうで、二人とも感じのいい人達だった。もう一人、スペイン人のオジサンがいて、カタコトの日本語をしゃべっていた。私がスペイン語で答えると、「アタマイイ、アタマイイ。」と、さかんに言っていた。 隣の日本人夫婦は、アルカサルでこのオジサンに会い、このタブラオを紹介されたのだそうだ。彼等もサクロモンテの洞窟内にあるタブラオに行こうと思っていたらしいのだが、このオジサンにここを強く薦められたそうだ。二人のオジサンがそんなにいいと言うのだから、きっといいのだろう。と、期待がふくらんだ。 カッコイイ男の人が椅子に座り、ステッキで拍子をとるところからショーは始まった。『モダンで洗練されたフラメンコ』とガイドブックにも書いてあったがその通りである。普通フラメンコと言えば、ギタリスト、カンテ (歌い手) 、ダンサーで構成されるが、ここではバイオリニストやパーカッションもいて、今まで見たものとは少し変わっていた。大きい舞台でやっても、似合いそうなフラメンコである。 今まで私が実際見たフラメンコでは、ダンサーはいつも女の人だったが、ここでは男の人も踊る。かっこいかった。 私の席からは写真が撮りにくいので、少し後ろにさがって写真を撮っていると、さっきのスペイン人のオジサンが、後ろにある椅子を自分の隣に移動し、 「ここに座るといい。」 と言ってくれた。それは嬉しかったが、その後このオジサンがやたらに話しかけてきたので、もう少し集中して見たい私には、ちょっとうるさかった。おもしろいオヤジではあるのだけど。 でもこの人は実はスゴイ人なのかもしれない。ここのダンサー達とは皆友達で、彼等が小さい頃から知っているそうだ。 この人も長年フラメンコギタリストをやっていたらしいのだが、そのせいで足を傷めてしまったのだそうだ。日本で教えていた事もあるらしい。 彼はフラメンコに合わせて一緒に歌い、完璧に拍子をとっていた。いちばんいい席に座っている、日本人のオジサン達が、ずれた手拍子をうっているのがおかしかった。 スペイン人のオジサンは、ダンサーが変わるたびに彼等の名前を教えてくれた。いちばんかっこいかった男性ダンサーは、「ミゲル、二十九才。」日本にも公演で何度か来ているらしい。ミゲルも踊りながら、 「オラ ! ○○。 (オジサンの名前) 」 と、オジサンに挨拶していた。オジサンが、 「ツギ、ジュウニサイ、コドモ、オトナトオナジ。」 と言うと、本当に小さい女の子が登場し、大人顔負けの険しい表情で踊りだした。オジサンは、このショーの始めから終わりまで、全部頭に入っているのだ。 しかし、どうだろう? 日本人であり、フラメンコのリズムもとれない私が、こんな事を言うとナマイキかもしれないか、これは、フラメンコなんだろうか? 確かにかっこいかったけど。フラメンコとはシナリオ通りにやるものとは違うのではないだろうか? 私はすでに、セビリヤで、本物のフラメンコを見てしまっていたのだ。ロス・ガジョスのフラメンコには人生があった。多くの日本人は、若くて美しい人が踊るのを見る方を、好むかもしれない。しかし私には、年をとり、人生経験を積んだ人が踊るフラメンコの方が、より素晴らしいと思われる。 表情のつくり方を教育されて、うまく踊れたとしても、それは違うんじゃないかなぁ、とナマイキながら思ってしまったのだ。 それでも、これはこれで、とても良くできたショーであり、ハンサムな男性ダンサーが華麗に踊るのを見られたので、良かったのである。 1997年11月24日(月) 雨が降っているので観光する気にならず、買い物に行くことにした。 グラン・ビア・デ・コロンという大きな通りをブラブラしていると、CD屋さんがあった。ここにはなんと、ここの店主と俳優の天本英世さんが一緒に写っている写真が飾ってあり、「日本のテレビに出演した」と書いてある。NHK衛生放送の『世界わが心の旅』で、天本さんがCD屋さんで、ガルシア・ロルカの詩を歌ったレコードを、何枚か買っていたのを覚えているが、ここがそのお店らしい。 中に入り、パコ・デ・ルシアのCDを見ていると、お店のオジサンが私の所に来て、 「今かかっているのが、そのCDだよ。」 と教えてくれた。 私は、そのパコ・デ・ルシアのCDと、クラシックギターの巨匠、アンドレス・セゴビアのCDをカウンターに持っていき、 「二枚買うから、負けて。」 と言うと、少しだけ負けてくれた。 「天本英世さんと友達なんですか?」 と聞くと、オジサンはちょっと嬉しそうに「そうだ。」と言い、二人で写っている写真を見せてくれた。 「テレビを見たよ。」 と言うと、NHKが撮影に来たが、本人はその映像を見ていないと言う。 そして、私もオジサンと一緒に写真を撮ってもらった。オジサンは、 「私には日本人の友達がたくさんいる。」 と言って、日本人女性と写っている写真などを見せてくれながら、 「君とも、もう友達だ。」 と言ってくれた。私はスペイン人のこういう所が好きだ。そしてなんと、食事に誘ってくれたのだ。午後二時にいったん店を閉めるので、二時に来て欲しい、と言う。 二時になり、CD屋のオジサンとのバルめぐりが始まった。彼はマヌエルさんという。 このバルめぐりはスゴかった。次から次へといろんな店に連れていってもらい、ものすごくいろんなものを、食べ、飲んだ。全部彼のおごりである。 最初の店で食べたハムが、バツグンに美味だった。スペインのハムといえば、ハモン・セラーノが有名だが、それよりも柔らかくて、とにかくおいしい。このハムの事を、ハモン・パタ・ネグラといい、値段も、ハモン・セラーノの三倍ぐらいするそうだ。 次に魚料理がおいしいので有名な、『クニーニ』というバルに行こうとしたが、開いていなかった。 「月曜日だから休みだったのを忘れていた。」 と、マヌエルさんは残念そうに言った。このバルめぐりは、午後五時半頃まで続いた。 彼は日本の事にくわしく、電車の中でブスーッとしている、日本人のおじさん達をマネたりして、おもしろかった。 「日本のおじさん達は普段は感じ悪いが、お酒を飲むと笑顔になり、感じ良くなるだろ」 と言いながら、飲酒後の顔をマネしてみせた。 人にもよるけど、確かに彼等は陽気にはなるが、スペイン人達にみる陽気さとは、ずいぶん質が違うなぁ、とお酒を飲んで騒いでいるサラリーマン達を思い出しながら思った。 スペイン人は食事と酒をゆっくりと楽しみながら摂るが、多くの日本人はストレス発散の為に酒を飲んでは騒ぎ、会社や上司の悪口を言いまくり、具合の悪くなるまでガンガン飲んで、さらにストレスをためている、という気がしてしまうのだ。 中には陽気になるどころか、怒ったり、からんだり、あるいは泣いたりする人もいるので、「陽気になる人ばかりではない。」と、マヌエルさんに言った。 いろいろ話を聞いていると、彼は日本人よりも日本人の事を良くわかっているのではないか、と思った。それでも最近の事まではあまり知らないらしく、 「おじさん達は感じ悪いが、若い人達は感じがいいんじゃないか?」 と言うので、最近はそうでもない、と言い、上から下までまったく同じ格好をした、高校生の話などをした。もちろん、おじさんでも、若い人でも、いい人はいるわけで、「人による」とは断っておいたが。彼は、 「日本の若い女性は、少ししか食べないが、なぜだ?」 と、聞いてきたので、まず、自分はたくさん食べる、という事を断っておき、(実際私はたくさん食べる。) 「たぶん、彼女等は、太りたくないんだろう。」 と言うと、 「トルペ ! (バカだ ! ) 」 と言ったのには爆笑だった。彼は私の事を、かなり気に入ってくれたようで、またスペインに来たい時には飛行機代を出すとまで言い出した。そこまでしてもらっては大変である。グラナダの男の人は皆そうだが、さっきから「グアパ (美人) 」を連発したりしているので、私も気をつけなければ、と思った。 「なぜ、そんなに親切にしてくれるのか?」 と聞くと彼は、 「私はいつも親切だよ。」 と答えた。 約三時間半にわたるバルめぐりの間、どこに行ってもマヌエルさんの友達がたくさんいた。彼の友達も皆、人が良さそうだった。私もこんな楽しい生活がしたいなぁ、と思う。 マヌエルさんは、再び店を開けながら、今度は夕食にも誘ってくれた。帰り際、彼は私にフラメンコのCDをプレゼントしてくれた。 マヌエルさんと別れてから、寄木細工屋のエミリオさんの店に行くと、彼は、 「フラメンコはどうだった?」 と聞いてきた。私の事を覚えていてくれたのだ。私はもちろん、 「とても良かった。」 と答えた。 エミリオさんは、店の奥の方で椅子に座っている、日本人男性を紹介してくれた。 彼はなんと、『こたつ』に入っていた。スペインにもこたつがあったのだ ! 私もこたつに入れてもらい、ここでまた、ワインをごちそうされた。 この日本人男性は、名前をカズキといい、ヘリコプターのパイロットをしていたのだが、やめてしまったのだそうだ。スペインには何度も来ていて、レンタカーであちこち回り、ガリシア地方以外は、全部行ったのだそうだ。既婚者である。彼は、ここグラナダにしばらく滞在しており、初めは語学学校に通っていたそうなのだが、学校が肌に合わず、今はエミリオさんの店の奥で、スペイン語の個人授業を受けているらしい。 話を聞いているうちに、彼は私と同じ宿に泊まっている事が判明した。二階に居るそうだ。それでも彼は既婚者であるし、真面目そうに見えたので、さほど心配はしなかった。 彼は勉強熱心で、習った単語などをノートにびっしり書いていたのだが、その中にスラングが書かれていたので、私はそれに興味を示した。スラングのことを、スペイン語で、タコと言うらしい。 ここでおもしろいスラングを覚えた。「オンブレ カサド ブロ エストロペアド」と言って、「結婚した男は、もはや腐った (叉は使い物にならない) ロバだ」という意味である。これは皆、しょっちゅう言っていた。そしてもう一つ、不倫の事を「カニカライデ」と言うそうだ。エミリオさんなどは、 「ジョ オンブレ カサド ブロ エストロペアド、ペロ、メ グスタ カニカライデ (私はオンブレ カサド ブロ エストロペアドだけど、不倫が好き。) 」 なんて言っていて、おかしかった。 エミリオさんにCD屋のマヌエルさんの事を話すと、彼等は友達同士だということがわかった。 「彼はとてもいい人だよ。」 と、マヌエルさんの事を言っていた。私は、夕食をエミリオさんも一緒にどうか? と誘ってみたのだが、用事があってムリという事だった。 このあといったん宿に戻ったのだが、どうも、おなかの具合が悪い。三時間半のバルめぐりがたたったのか? 何か体に合わないものでも食べたのか? だんだん本格的に気持ち悪くなってきてしまい、夕食にはとても行けない状態だった。約束を破りたくはないし、どうしよう、と思っているうちに、マヌエルさんに、住所と電話番号を教えてもらっていたのを思い出した。電話には自信がないが、黙ってすっぽかすのは気が引ける。とにかく電話をかけ、「おなかを壊してしまい、夕食に行けなくなってしまった。申し訳ない。」という事を伝えた。彼はちゃんと解ってくれた。初めてまともに電話で話が出来たのが嬉しくて、ちょっぴり自信もついた。夕食は残念でもあったが、実は少しホッとしたのも事実である。オジサンと二人で食べに行くのがちょっと心配でもあったからだ。 具合が悪いのは治らないが、シャワーだけは浴びたいと思い、体を洗っていると、途中からシャワーのお湯が水になってしまった。お湯に戻らないので、私は急いで体をふいたが寒くてしょうがなかった。それじゃなくても、グラナダの夜はけっこう寒い。これには参った。具合が悪い上にこれだ。この宿は、ガス切れをよくおこすそうだ。 鐘の音が聴こえてきた。セビリヤでも、コルドバでも、一日に何度か、鐘が鳴る。この鐘の音が私はとても好きだ。特に、夜、鐘の音を聴きながら眠りに入る、というのが実に素敵だなぁ、と思う。 1997年11月25日(火) 朝になっても具合の悪いのは治らなかったが、前日よりはマシだった。 朝のうちに、危険地帯だと言われているサクロモンテの丘にある、洞窟住居は見ておきたいと思った。カメラは置いて行った方がいいと言われていたが、やはり写真は撮りたいと思い、上着の下にしのばせて行った。洞窟住居が見えてきた時には感激した。それほど早い時間ではなかったが、人は少なかった。観光客らしき人はポツリポツリと見かけたが、住人と思われるジプシーは、一人見かけただけだった。ちょっと怖いのもあり、他の観光にも時間をあてたいと思ったので、あまり奥には行かなかった。とにかく洞窟住居を見られたので、満足だったのだ。 私はそのままアルバイシン地区へ向かった。なぜアルバイシンを見たかったかと言うと、ガルシア・ロルカの詩に、アルバイシンの事を詠った美しい詩があったからだ。 実は、私はロルカの詩を読んだのは、つい最近である。今回アンダルシア地方を旅するので、スペインに行く前に、ロルカぐらいは読んでおこうと思い、ロルカの評伝と詩集を読んだのだったが、一辺で好きになってしまった。物の見方が鋭く、常人では思いつかない言葉の使い方をする。特にスゴイと思ったのは、ロルカの親しい友人であった闘牛士が亡くなった時の詩で、「死が傷に卵を置いた。」という書き方をしているのだ。 アルバイシンには見晴らしのいい所がたくさんあり、曇っていたのに遠くの山まで良く見えた。歩いていると薬屋が目に入ったので、胃腸薬を買う事にした。日本からも持ってきたのだが、すでに全部飲んでしまっていたのだ。薬屋に入り、店員の女の人に、 「お腹の薬が欲しい。」 と言うと、 「どういう風に具合が悪いのか?」 と聞かれたので、私は少し下痢気味だった事から、辞書を見ながら、 「腸が悪い。」 と言った。すると店員は、私の辞書を引き、「ディアレア (下痢) 」の所を指さし、 「これではないか?」 と聞いてきた。こういう所がグラナダの人達の親切な所だと思う。マヌエルさんも、エミリオさんも、会話中でわからない言葉があり、私が辞書を引いていると、彼等も一緒に調べてくれるのだ。 そして下痢止めの薬は三百何ペセタか、という安さで、驚いた。 お昼は中華料理店に行こうと思っていた。実は前日に、グラン・ビア・デ・コロンで中華料理屋を見つけ、チェックしていたのだ。メヌー・デル・ディア (日本で言う、定食のようなもの) で、飲み物も付いて、六九五ペセタは安い。ここで、本当に久しぶりに白いご飯を食べた。もう感激だった。辛いスープや、おかずもおいしかった。なんだかホッとした。具合の悪い時は、慣れているものを食べるに限る。ここでちょっと驚いたのは、テイクアウトにしてもらっている客がいたのだ。ここはどこから見ても、中華料理店そのものである。それがテイクアウトである。これは便利だ。 この後マヌエルさんのお店にちょっと顔を出し、昨日の事を謝った。彼は怒るどころか 「風邪をひいたんじゃないのかい?」 と心配してくれた。しばらく話をしてから、雨の降らないうちにアルハンブラ宮殿を見てしまおうと思い、店を出た。ところが、行こうとしたとたんに雨が降ってきてしまった。とにかく雨のアルハンブラだけはこりごりだった。 しかたがないので、とりあえず宿に戻った。またエミリオさんの店に行きたいとも思ったが、まだ調子が悪いので、この日はゆっくり休もうかと思い、部屋で今後の計画をたてる事にした。次に行くバルセロナの事も考えなければならない。私は、フィゲラス、カダケスにも泊まろうと考えていたのだが、荷物の移動などを考えるとちょっと大変なので、バルセロナから日帰りで行くことにした。 以前、フィゲラスでダリ美術館を見た時に、昼食に、美術館近くのレストランに入ったのだが、そこのパエリアは実に美味であり、カマレロもとても楽しい人だったので、再びそこに行きたいと思っていたのだが、日帰りでカダケスにも行くとなると、時間的にレストランに入るのはムリなので、これはあきらめなければならなかった。 部屋に居ると、外からのブザーの音が、私の部屋直撃で聞こえてくるので、ちょっとイライラした。しょっちゅう鳴っていたからだ。 シャワーを浴びる時、まず頭から洗った。昨日は先に体を洗っていて水になってしまったので、頭を洗えなかったのだ。シャワーを浴びている間中不安だったが、今回はずっとお湯が出ていたので助かった。それにしてもここは寒い。部屋にストーブらしきものはあることはあるが、ほとんど役に立たない。ごく側に寄って手をかざしていれば、すこ~しは暖かいかナ、という程度だ。 1997年11月26日(水) また雨である。アルハンブラ宮殿には晴れている時に行きたかったが、明日はバルセロナに行く予定なので、今日行くしかない。 とりあえず、午前中は買い物に当て、様子を見る事にした。 バルでの朝食で、私が気に入って何度か食べたものがある。それは『パン・コン・トマテ』と言って、パンに、トマトとニンニクを塗って焼いたものに、オリーブオイルをかける、というものだ。これは美味しいし、実にスペインらしい朝食ではないか。 そのパン・コン・トマテを食べ、ブラブラ歩いていると、知らないオジサンが、私を見るなりいきなり、 「グアパ、グアパ。一緒に朝食を食べに行こう。」 と言うではないか。私が、 「朝食ならもう食べた。」 と言うと、 「じゃあ、コーヒーを飲みに行こう。」 と言いながら、腕を組もうとする。私は、 「用事があるから。アディオース ! 」 と言って、さっさと逃げた。おもしろかった。グラナダ人のオヤジは、自分の年など全く考えないでナンパしてくるからおもしろい。じいさんでもナンパしてくる。とにかくグラナダでは「グアパ、グアパ」とよく言われた。エミリオさんも、別れ際にはいつも、 「アスタルエゴ、(またあとで。) グアパ。」 と言う。私はその度に、 「グラシアス、グラシアス。」 と言っていたのだが、ある日、よく聞いていると、彼の男の友達には、 「アスタルエゴ、グアポ。(ハンサム) 」 そして、女の友達には、 「アスタルエゴ、グアパ。」 誰にでも言っていたのだ。 午後になっても雨は止まなかった。私はまず、「火祭りの踊り」などで有名な作曲家、マヌエル・デ・ファリャの家へ向かった。 ファリャと、フェデリコ・ガルシア・ロルカは、親しい友人だったそうである。 ファリャの家はわかりにくく、人に聞くにしてもまわりに人がいなかったので、もうあきらめてアルハンブラへ行こうかと思った時に、ちょっときれいな通りを見つけ、入って行くと、そこに『ファリャの家』があった。 普通の家のような感じだ。客は私一人である。家の中は写真は撮れないが、親切なおばさんが一つ一つ案内してくれた。 ここにはファリャのギターやピアノ、ロルカからプレゼントされた、ロルカ自身が描いた絵や、ドビュッシーからのプレゼントである葛飾北斎の絵などが、当時のままの状態で残されているのだ。庭の写真だけは撮らせてもらえた。庭からの景色は素晴らしかった。ファリャの事は、あまり知らないからわからないが、こんな所に住んで、芸術を創り出していたなんて、幸福だったんではないかなぁ、と想像した。 帰り際、私はここのおばさんに、 「グラナダはいつも、天気が悪いのですか?」 と聞いてみた。ここに着いた日は晴れていたが、その後はずっと雨ばかりで、うんざりしていた。彼女は、 「いつもはいい天気なんだけど。でも今はスペイン中が雨みたいよ。」 と言った。それならしかたがないなぁ、と思いながら、アルハンブラへ向かった。 それでもだんだん小雨になってきたので、アルハンブラを見ている間は、時々傘がいるという程度だったので、学校のツアーで来た時よりははるかにマシである。ただ、光が入ってくると、光景がかなり違ってくると思うので、それが見られなかったのは、やはり残念であった。 一人で見たアルハンブラは、実にきれいだった。前後に人がたくさんいるのとは大違いである。写真もゆっくり撮れる。団体だと、どうしても被写体に人が入ってしまいがちだが、一人なので建物や風景だけのきれいな写真が撮れる。 後ろから日本人団体が歩いて来た。日本語のガイドつきなので、ラッキー ! と思い、少し立ち止まってガイドを聞いていると、その団体のオヤジに、ジロジロとイヤな目で見られた。自分たちだってどうせ安いパックツアーで来て、ガイドしてもらってるんだから、私のような貧乏旅行者がちょっとぐらい聞かせてもらったっていいと思うけど、本当にケチくさいなあ、と思い、その場を離れた。でもこのガイドさん、たいした事は言ってなかった気がする。 「見て下さい、この天井。すごく高いです ! 」 なんて言っていたけど、そんな事は言われなくても見ればわかる。 学校のツアーで来た時は、大雨の中をやたらと歩き回って疲れた、と思ったが、マイペースで見ていると、広いのも全く苦にならない。宮殿内に猫がたくさんいるのも、猫好きの私には嬉しい。 アルハンブラの帰りに、通り道にあるエミリオさんの店に寄った。スペインに詳しいカズキくんに、バルセロナの宿の事など、情報を聞きたいと思ったのだが、彼はスペイン語の授業中だった。エミリオさんが、 「六時半頃には、授業が終わるよ。」 と言ったので、そのくらいの時間にまた来る、とエミリオさんに言い、まわりの店を見て買い物などをしながら、宿へ戻った。 ゴメレス坂には、みやげ物屋がたくさんあり、エミリオさんの店にあるような寄木細工のものも、あちこちで売られている。エミリオさんの兄弟がやっている店も何件かあるそうだ。ギターショップも数件ある。見ているだけでも楽しい。 六時半を過ぎたので、再びエミリオさんの店に行った。カズキくんに、 「バルセロナの、安くていい宿を知らない?」 と、聞いてみた。私は今までの経験と、ガイドブックによる情報から、二千~三千ペセタぐらい出せば、まともな所に泊まれるだろう、と考えていた。ところが彼は、バルセロナは治安が悪いので、いつも五千ペセタぐらいの所に泊まっているそうだ。エミリオさんが一つ安い宿を教えてくれたが、そこはユースホステルだった。ガイドブックを参考にした方が良さそうだ。 私は、よく近所に買い物に行く時に持って行くような、小さいバッグを持ち歩いていたのだが、カズキくんに、 「バルセロナでは、そのカバンはやめた方がいいよ。」 と言われた。ヴィトンのバッグを持ち歩いているわけではないし、こんな買い物かばんが危険なんだろうか? いつもこのバッグには、貴重品は入れていないし。彼は、私がこれから行くバルセロナの事を、物騒だとか、人が不親切だとか、悪口ばかり言っている。 「グラナダは、けっこう観光できた?」 などと彼に聞かれたので、私は今まで行った所を言った。アルカサルは学校のツアーで見ているので、今回は行かなかったが、グラナダ観光はこれで充分見たと思っていた。グラナダでは、アルハンブラ宮殿さえ見れば充分。と書いてある本もある。ところが彼には、 「カルトゥハ修道院は? アラブの浴場跡は? どこ見てきたんだよ。」 と言われてしまった。カルトゥハ修道院は、確かにガイドブックにも出ていたが、市の中心からは少し離れていると書かれていたので、予定に入れなかったのだ。ここには、宗教裁判を思わせる生々しい残酷な絵がたくさん飾られ、純白の大理石の彫刻や、真珠や金、銀の細工、木材と象牙などの過剰なまでの装飾がほどこしてあるという。ここは私の好みに合いそうだ。 しかしアラブの浴場跡というのはガイドブックのどこにも出ていないし、カズキくんもグラナダに来てから現地の人に教えてもらったそうなので、私が知っているはずがない。 この後、エミリオさん、カズキくんと、一緒にバルに行くことになった。カズキくんがいったん宿に戻り、荷物を置いてきたい、と言うので、私もついでに、持っていたガイドブックや地図などを置いてきた。そして私達は、ヌエバ広場にあるバルに入った。ここでは、若い男性二人がカマレロをやっていた。ニックネームを「キコさん、セコさん」と言う。サン付けで言っていた。皆、サン付けで呼び合っているのがおもしろい。エミリオさんも、自分の事を「エミリオさん」、カズキくんのことは「カスキサン」と言っていた。 カズキくんは、ここでバルセロナでの相談にのるつもりだったらしく、「ガイドブックは?」と聞いてきたが、私はさっき宿に置いてきてしまったのだった。 私はここの二人のカマレロに、もてまくった。目が合うたびに、 「オー、アツコ、ムーイ グアーパ (とても美人) 」 などと言われ、気分がいい。キコさんが紙に書いた日本語を見て、私は目が点になった。 「キミトセックスシタイ。」 キコさんが、カズキくんに、「日本人の女のコを口説くには、何て言えばいいか?」と、聞いた時に、カズキくんがこれを教えたらしい。まったく何を考えているんだか? よく外国人に、ろくでもない日本語を教えるやつがいるが、目の前にそういう人がいるのだ。勿論キコさんは意味を知らない。私は、これは女のコに言うにはあまりいい言葉ではなく、まともな女性にだったら、ひっぱたかれる覚悟をしたほうがいい、という事を、キコさんに伝えた。するとキコさんは、別の口説き文句をカズキくんに聞いていた。今度は彼は、 「キミノ ヒトミハ キレイダ。」 というのを教えた。まあ、これなら問題ないだろう。キコさんは一生懸命これを覚え、早速、ヘタクソな発音で私にそれを言ってきた。とにかく楽しいカマレロ達である。私は、 「せっかく、バルのカマレロ達とも友達になって、楽しくなってきたのに、明日バルセロナに行かなきゃならないなんて悲しいよ。もう少しここに居たかった。」 と言うと、カズキくんが、 「それなら何日か延長しちゃえば? 国内便なら変えられると思うよ。オレがイベリアに聞いてやってもいいよ。」 と言ってくれたので、私はダメモトで、二日延長を言ってもらおうと思った。 フラメンコの話になった。セビリヤのタブラオ、ロス・ガジョスで、素晴らしいフラメンコを見た事を言うと、「ロス・ガジョスと、ハルディネス・ネプトゥーノと、どっちが好きか?」と聞かれた。私は「ロス・ガジョス」と言った後で、しまった ! と思った。ハルディネス・ネプトゥーノは、エミリオさんが紹介してくれた所だったのだ。エミリオさんがちょっぴり悲しい顔をした。私はすぐに、 「でも、もちろん、ハルディネス・ネプトゥーノもとても良かった。」 と言った。そして、 「ロス・ガジョスのフラメンコは、とても人間的で、感動した。でもハルディネス・ネプトゥーノはとてもプロフェッショナルに思われ、かっこいかった。タイプの違うものを見られたので良かった。」 という事を言いたいのだが、私のスペイン語力では、伝える事ができない。カズキくんに通訳してもらったのだが、正しく通訳してもらえなかった。私がいい意味で「とてもプロフェッショナル」と言っているのに、彼は、「デマシアド (あまりにも) プロフェッショナル」と言っている。これでは悪い意味になってしまうではないか。いくら言っても、「デマシアド」を繰り返すばかりなので、私もあきらめた。自分のスペイン語力のなさをこれ程くやしく思った事はない。 エミリオさんは、車なので、ワインも控えめで、先に帰って行った。最近はスペインでも飲酒運転の規制がきびしく、日本並みなのだそうだ。 エミリオさんが帰った後も、私達は店が終わるまで飲んでいた。と言っても、この店が終わるのは0時ぐらいだ。ちなみに、グラナダのバルでは、飲み物を頼むとツマミもついてくる。つまり、飲み物代だけで、食事もできてしまうのである。 飲んでる間中、キコさん、セコさんに口説かれまくり、おもしろかった。でも、キコさんは既に結婚しているらしく、セコさんにもちゃんと彼女がいるらしい。キコさんに、 「その指輪は?」 と聞くと、 「いやー、これはそのー、友達のしるしなんだよ。」 などと言うし、私が、 「タバコを吸う人はちょっとなー。」 などと言うと、吸っていたタバコを、サッと隠し、 「ボクは全然タバコは吸わないんだよ。」 などと言っているのがおかしくて、笑ってしまった。私がジョークで、 「プレゼントをくれる人が好き。」 と言うと、キコさんは本当に、私に手袋をくれた。この手袋が、この後実に役に立った。 店を閉めると、キコさん、セコさんは、バイクで家に帰って行った。私達も宿に帰るとカズキくんが、 「バルセロナの相談にのるから部屋に来る? ガイドブックと地図を持ってきたら?」 と言った。私は、警戒して、 「大丈夫でしょうねェ。結婚してるから、信用してるけど。」 などと言うと、彼も、 「じゃあ、ドアを開けとくから。別に盗られるものもないし。」 と言って、ドアを全開にしたので、私は、ガイドブックと地図を取りに行った。 私は偶然この宿のロビーで、誰かが置いていったバルセロナのホテルの地図を見つけたので、「もらっちゃえ」という訳でそれを持っていた。安いホテルに丸をつけておいたら 「おいおい、ここは一番危険なチナ地区だよ。」 と言われ、そうだったのか、と思った。やはり、マラガにいた時に、ゆりにコピーさせてもらった『個人旅行』に出ていた、『ヴィクトリア』という所が一番良さそうだ。カタルーニャ広場のすぐそばにあり、ここには空港バスも通っているから、タクシー代も節約でき、便利である。タクシーにボラれる心配もない。カズキくんはガイドブックを見ながら 「バルセロナだったら、モンセラット。あとタラゴナにも行かないと。」 などと言っているが、そんな事をしていたら、バルセロナ市内はまったく見られなくなってしまう。せっかくバルセロナみたいなおもしろい所に行って、そんなに毎日遠出ばかりする人もめずらしいと思うが、私も一日はフィゲラス、カダケスにあて、あとは全部市内観光で充分だと思っていた。それに、あれもこれもと忙しく動き回るのは、あまり好きではない。私は、例えば深夜バスの事だとか、そういう細かい情報が得られれば、と思っていたのだが、結局彼からは何も得られなかった。 ジャンル別一覧
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